2016年03月11日

無常の風



今晩は、本日も粛々。


大学時代の友人が亡くなりまして、
友人が亡くなったのは、初めてではないのですが、
こればっかりは慣れないですね。

控室で時間がありましたので、
個人的にお経をあげてきました。

選んだ御文は、その友人も好きそうだったので、
一番有名な白骨の御文です。
簡単に訳をのっけますと、


さて、人間の定まりのない有り様をつくづく考えてみますと、
およそはかないものとは、
この世のはじめから終わりまで探してみても、
まぼろしのごとき一生涯のことであります。
人が一万歳生きたとは、いまだかつて聞いたことがありません。
一生は過ぎやすいものです。
お釈迦様の教えが届かない末世の今にいたっては、
いったい誰が百年の命を保ち得ましょうか。

我がさき、人がさき、
今日とも知らず、明日とも知らず、
人に遅れ、人に先立ち、
根もとに雫がしたたるよりも、葉先の露が散りゆくよりも多く、
日々、老い若きの順番に関係なく、
人は死んでいくものと言われています。

それゆえ、朝には紅いの血気盛んな顔色であっても、
夕には白骨となる身であります。
今にも無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、
一つの息は永遠に途絶えてしまいます。
若々しい美少年もはかなく変り、
桃李のような美しい女性も失われてしまうのです。
そのようなときには、家族親族が集まって歎き悲しんでも
まったくどうしようもありません。

そのままにもしておけないと、
野辺に送り火葬して、煙となってしまえば、
ただ白骨が残るばかりです。
「あぁ」と悲しんでも、悲しみ足りません。
人間がはかないことは、
老少定まりのないこの世界のならいです。

ですから、
どの人もはやく自分が何のおかげで成り立っているかをこころにとどめ、
阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げて、念仏するのがよいでしょう。
あなかしこ、あなかしこ。


お坊さんとしてお経を読んでいて思うのは、
亡くなった方を悼むより、
生きている私たちが、どう死を受け止めるか?に圧倒的に文章が割かれています。
ですから、
引用した白骨もそうですが、
本来は聞いてくれている人たちに向かって、読まなくてはいけません。

が、
今回は、その友人のためだけに、
読みたかったのです。


                               ごんぼっち

posted by ごんぼっち at 23:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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