2015年09月27日
二足の草鞋は、一対の草鞋と解釈できる
今晩は、本日も粛々。
寺子屋は、坊さんつまり私が営んでいるので寺子屋です。
今年は、祖父が亡くなった3年前に続き、
私が僧侶になった大学時代に寺を支えてくれていた重鎮の方々の訃報が届く、
ちょっと辛い1年です。
ちょっと、なんて言葉を濁したのは、
私にはまだよく分かりませんが、
生も死も涅槃の道って、普段読んでいる和讃に書かれているからです。
(和讃とは、お坊さんが歌っているような部分のことです)
生きていても死んでからも、人は同じ道を歩く、
東洋人にはぐっと心にくる言葉です。
さて、私はまだ僧侶としては駆け出しで、
大学も仏教系ではなく、何とミッション系(笑)。
一生懸命、まずできることを増やしていく、
習うより慣れよと、いう段階です。
ですので、お年寄りたちには物足りないかもしれませんが、
仏教の現場で学び得たことや、
お経や偈文(一番有名なのは正信偈ですね)を読んでいて、
率直な考えを語り、
私は音楽が好きなので、歌詞を理解し精一杯歌うように、
読経するようにしています。
こういう事柄は、実は授業と同じ構造をとります。
私はよくお寺と塾の二足の草鞋で大変だねと言われますが、
実はひとつで、自分の中であまり区別はありません。
お寺という、
僧侶が歴代作ってきた場所の力。
今はテナントですが(笑)、何とか伝えていきたいなと思っています。
ごんぼっち
この記事へのコメント
コメントを書く