2014年07月19日
Mr.myself
今晩は、本日も粛々。
夏が来ると必ず思い出してしまうので、
毎年1度書くようにしています。
少々長いお話しになりますので、こちらを聞きながらどうぞ。
ハードロックや洋楽が大好きな私ですから、意外に思えるかもしれませんが、
私はミスチルのアルバムをほとんど全部持っていました。
かつて、御堂でやったライブでも、ミスチルから1曲選びました。
私が大学最後の年に、
すっごく仲が良かった後輩が、ミスチルを大好きだったんですね。
社会人1年目の時、彼女のご実家に初めてお邪魔した時も、
ご両親が、流してくれていました。
履修はしていなかったのですが、オブザーバーとして参加していたゼミで会いました。
英文科(出身大学の看板…ではありませんが、ルーツであり花形の学科です)らしからぬ、
上品な印象の美人で、ぱっちりした眼が可愛らしい方でした。
やっぱり、こういう眼、好きなんですね(笑)。
ゼミでは、たまたま共同発表する機会があったため、
2人の距離感は比較的距離は近かったです。
いろんな本を貸して^^と言われていたので、
カルチュラル・スタディーズという学問分野に興味があると言ったので本を貸したら、
「何ですか?あの難しい本は!!」とキレられたの、よく憶えています。
物腰は柔らかいのですが、気が強いところは、見ていて微笑ましかったですね。
そんな雰囲気の方だったので、発表の打ち合わせで、彼女のアパートにお邪魔した時、
不案内な中延という場所で、携帯でナビをしてもらいながら家を探し、到着した時、
窓から大きな声で手を振られたのがすごく彼女らしくない気がして、
びっくりました。あぁ、こういう一面もあるんだ、と。
本人曰く「すっごい、寂しがりや」。
英文科ながら公務員試験に合格し、町の教育委員会に配属が決まっていました。
私の性格の始末に終えないところなのですが、
身近に感じてしまった人は、放っておけなくなってしまいます。
12月頃、突然彼女が倒れました。
アパートの階段から落ちて、肋骨を折ったこともありました(笑)。
可愛いでは済まないくらいの、ドジな人でした。
今回もそんな感じのことだろうと思っていました。
その子の彼氏も心配して、駆けつけていたそうです。
…そうなんです。私の元彼女の話ではないんです。
ドキドキさせて、ごめんなさいね(笑)。
大学からちょっと離れた病院ということもあり、
週2〜3回くらいのペースで通っていました。寂しがりやだそうですから。
彼女自身も漏らしていました。
「入院して最初の方は友達もたくさん来てくれたけど、日が経つと、誰も来てくれないんですよね…」と。
彼氏さんと私くらいだったそうです。
本人には一大事でも、それ以外の人には、
意外と「他人事」なんです。
病気になると、人への感覚が、研ぎ澄まされていくもので、
当初は、彼女も現実を受け入れ切れなかったのでしょう。
お見舞いに来てくれた友達たちに、片っ端から話していましたから。
「私、末期の肝臓がんなの」と。
そういうと決まって、
「ほらほら、この引いていく感じが、すっごい嫌なの…」
周囲を試して、孤独を確かめてもどうしようもないんですが。
我慢強い子で、がんが多少暴れても、治療が大変でも、
滅多に「痛い」とか「苦しい」なんて言わなかったから、周りも、想像だにしなかったようです。
そして、22歳の若さでこんな難病に罹るということも。
2度目の手術が終わった時、大学はちょうど卒業式でした。
彼女は、式に出れませんでした。
数日後、親しくさせてもらっていた大学の職員と二人で病院を訪れ、
お母様と看護婦と彼女の、たった5人での卒業式を行いました。
「あれだけ頑張ってとった教員免許って、こんな紙切れなのね」と、無理に笑いながら、喜ぶというより、彼女は戸惑っている感じがしました。
よく見舞いに訪れていた私は聞いていました。
目の前に迫った「死」を、どうにも受け止められずに苦しんでいたことを。
暇ならたくさん本を読めるやん!と言って、本をどっさり貸していましたので、
その中にこっそりと、時々、
死を見つめるために、人生の意味を考えるのに、励まされる本も入れておきました。
私がお見舞いに行った折、彼女はふと、その感想を教えてくれながら、
常に自分の気持ちを整理しようとしていました。
大学を卒業後、私は地元に戻ることになりました。
週に1回〜10日に1回は、電話をするようにしていました。
GWには大学時代の友人たちに会いがてら、お見舞いにも行きました。
春休みには、彼氏と温泉旅行&大好きなミスチルのライブに行ってきたそうです。
そこで彼女は、彼まで試したようです。
一緒にお風呂に入った時に、お腹に大きくついた手術跡を見せて、
「私、こんなんになっちゃったんだよ」と。
私が訪ねた時も、一度、おもむろに上着を脱ぎ出そうとしていました。
びっくりして、慌てて止めると、
「見て欲しいんです。私の傷を」
悪い癖で、こういう時…過剰に信頼を抱いてもらった時にはいつも、
相手が引く事を言って、さっさと逃げます。
「あなたみたいな綺麗な人の裸を見ると、興奮するからダメ」と。
いつものおちゃらけた私をよく知っているので、解ってもらえるかと思いましたが、
彼女は真剣に落ち込んでしまいました。
「そんな…、見てくださいよ。。。」って(当たり前ですよね)。
彼女は、一度漏らしていたことがあります。
「根保さんは、いつも私が望んでいる以上のことを、返してくれるの。
だから、あなたの前にいる時は、“give & take”なんてことを考えずに済むんです」と。
私はただ、情に流されているだけなんですが。
病名を話してみて、引かなかったのも、私だけだったそうです。
7月に入り、新規開校した前職の塾の、松任校の個別指導教室に赴任し、
初めての夏期講習の準備に追われている時、
彼女から電話がありました。彼女の携帯を使って、お母様からでした。
「昨夜、娘は天国に行きました。
今までよくしてくれて、本当にありがとうございます。娘も喜んでいました」と。
若いと、転移もあっという間。
最初に倒れてから、8か月で、亡くなってしまいました。
その報を聞いた日、ショックや悲しいということも、あまり感じなくて、
ただひたすらピンとこないという感覚でした。
その日の仕事帰りの夜中に、CD屋に行って、
彼女が大好きだった、ミスチルのCDを全部買ってきました。
思えば、昔に買ったのと同じのも混ざっていたのですが。
で、CDをかけるわけでもなく、
くたびれて眠るまで、ずっとビニールに入ったままのジャケットを眺めていました。
新入社員の1年目、
ましてOBである塾に雇われた立場を気にして、
彼女の葬儀に駆けつけなかったことは、今でも悔いています。
代わりにお盆休みに、静岡の彼女の実家を訪問し、墓前に手を合わせてきました。
その時、仏壇の前にはラジカセがいつも置いてあり、
ミスチルの『kind of love』というアルバムをかけていました。
いつも、自問自答します。
彼女の傷を、見たほうがよかったのか、見なくてよかったのか。
彼女が向けてくれた想いを、友人として、受け止めるべきだったか。
いえ、また一方で、恋人と友達を分けるのは、
こういうラインであるべきなんだろうとも思います。
そして、かつて寺子屋の構想を、彼女の前で語り、
目をキラキラさせて、すごいね、頑張ってね^^と言ってくれていましたが、
それが具現化した今の寺子屋の様子を、
あの子が生きていたら、どういうふうに見えるのだろう・・・と。
一昨年のようなことがあっても、
「私の知っている根保さんなら、こんなことでへこたれないでしょ?」
とにっこり笑っている彼女が、よく出てきました。
早いもので、もう10年以上が経ちました。
ですが、私にとって彼女は、
あの時も、今も、
決して「懐かしい」存在ではありません。
今も私の中で、しっかりと生きています。
彼女の死が、ようやく実感として、私に訪れたのは、
彼女が亡くなって6年も経ったある夏、
生徒が来る前の校舎で、
彼女が亡くなってから何枚目かのミスチルのアルバムを、ふと聞いていた時、
ふいに涙が止まらなくなったことがありました。
彼女のことで泣いたのは、それが初めてです。
彼女はあれだけ強く志望していた、教育委員会に勤める前に、どこかに行ってしまいました。
私は、本当は塾名に、
彼女の名前と、私の名前の共通の字でもある
『仁』
という字を、どこかに使いたくて、
彼女のご実家にお邪魔した時に、
名付け親でもある、お父様にお願いしていました。
塾のコンセプトがぼやけてしまうので、塾名にはしませんでしたが、
法人化した時に必ず使うと思います。
彼女と同じように暑い日に亡くなった、
私の祖父は「心の広い人になるように」と、博仁と名づけてくれました。
この「仁」は、徳目の中で、私が最も大切にしているものでもあり、
彼女の人柄を、とてもよく表している言葉でもあり、
私がどれだけ追いかけても追いかけても届かない、
そして、これからもずっと追いかけ続けるであろう、言葉です。
@己に克ち、他に対するいたわりのある心。儒教における最高の徳目
A愛情を他におよぼすこと。いつくしみ。おもいやり
B仁の道を行う人の意から、ひと。かた。
ごんぼっち
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