2014年03月21日
勉強する資格
今晩は、本日も粛々。
併合って言葉、国際社会で久しぶりに聞きましたね。
この言葉が溢れかえっていた後、やってきた20世紀は、
通称「戦争の世紀」でした。
ロシア・アメリカ。ともに「覇権」なんて意志を出さないことを願います。
さて、
昨年、附属高校の塾向け入試説明会に行った時に、
内申を重視する。
という方針を採っていました。
こういう話をすると、
成績が下の高校が、校風をよくするために内申重視をするのはわかるが、
最上位高がなぜ?とリアクションされる場合もあるのですが、
私はさもありなんと思います。
中学校程度の勉強が出来るくらいで、間違ったプライドに溺れる子どももいます。
勉強を身に付けていく過程で、
必ず訪れると言ってよい壁のひとつです。
例えば、
授業中に先生が不快にならない態度で授業を聴く。
ありがとう、ごめんなさいをきちんと言える。
挨拶ができる。
等々・・・。
当然のことかもしれませんが、
勉強がなぜ、古今東西の君主候補ための帝王学だったかというと、
勉強を極めれば極めるほど、
自分がいかにちっぽけな存在で、些細な縁で生きていること、
偉大な真理に出会うとこみあげてくる感謝や、
モノを知ることには、失敗がつき物だということ。
その中でも意志をもって学び続けるには、
人との関わりが欠かせないということ。
そして、
勉強の過程で、大きな力を身に付けてきたんだと、錯覚してしまうなんて、
よくあることです。
そういった驕りや慢心との戦いが含まれている
ということも、頭の片隅に入れておくといいと思います。
附属は、その程度で溺れる人間は、不合格にしますよ。
泉丘などは、したくても制度上できにくい。
そういう違いですね。
まぁ、点数さえ取れていれば、態度が悪くてもいい。
こんな子は学問に不向きというだけでなく、
勉強のような、素晴らしいものを
する資格が無いですね。
ごんぼっち
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