2018年05月22日
他人の不幸を見る快感
今晩は、本日も粛々。
日大アメフト部の悪質なタックル問題、
加害選手の潔さと、大学・監督コーチの対応のまずさが対照的ですが、
ちょっと違った見方で書いてみようと思います。
私は報道を観るときに意識しているポイントがいくつかありますが、
ひとつ大事にしているのが、
★我が身に置き換える
です。
例えば、凶悪な犯罪が起こったときに、
いくつかに関しては、身勝手で理解できないと思いますが、
多くは、自分でも似たことを考えた事がある、
置かれている状況や、周りの人、人生の目標みたいなものがなければ、
実行していたのは私だったかも、
と思います。
今回の日大の対応は、もちろんいけないのですが、
もし、寺子屋が大きくなって(するつもりはありませんが、念の為)、
幹部が何か犯罪を犯した時に、
真実を究明して、それを公にするという舵取りができるだろうか?
今までの功労者を、ひとつの事件で断罪する事まで踏み切れるか?
と考えると、かなり躊躇うだろうと思いました。
同じ構造は、
元財務大臣を庇う副総理や、
若手を騙して特攻隊に志願させた一部の軍人、
オリンパス粉飾決算事件など、
いたるところにみられます。
最近読んだ本に、シャーデンフロイデという概念、
自分が手を下すことなく、他人が不幸に見舞われたときの快感、
(ウィキペディアでは「ざまぁみろ」と訳していましたが、ちょっと違う気がします)
についての話がありました。
曰く、正義や愛がもつ、もうひとつの顔だと分析していました。
その著者は、正義や愛を無条件に良しとすることを疑問視しているようでしたが、
正義や愛が持つ排他性にその都度気付き、
洗練させていくのが人の営みだと信じたいですが、
それはさておき、
他人の不幸や失敗を、自分の正しさの回復に浸かるのに利用することだけは避けたいなと、
この報道を行なっているもの、
それを見ている人たちの一部を見て思いました。
ごんぼっち