先日最終のが入ったチラシです。
勉強を頑張りたい人たちのお問い合わせをお待ちしています。
今晩は、本日も粛々。
生徒たちには偉そうに進路について説く私ですが、
大学時代はその進路に悩み果てた経験があります。
その時、教育哲学のゼミの先生に相談に乗ってもらえ、
「こういうことが向いているのではないか」
「自分に合っているのはこういうことじゃないか」
みたいなモノローグ(独り言)のような失礼な相談をしていました。
アドバイスいただいた言葉にはっとしました。
「いいじゃないか、失敗しなさい」
もうお一方の先生からは、
「うーん、相当悩んでいるね。
そういう時は『向いている』とか『合っている』みたいな、消極的な選択も仕方ないかもね」
私が自身の道については、それまでは積極的に考えてきた方でしたが、
何をやりたいか
(つまり、自分を変えてまでその道に飛び込んでみたいという覚悟を持つ)
より、
自分を変えずにありたいと、いつの間にか思っていたんですね。
向いているなんて耳触りがいい言葉ですが、
それを「消極的」とぶった切ってくれたことに、
今でも感謝しています。
そして、失敗を繰り返してもいいから、ちゃんと積極的に人生を選べと、
アドバイスしてくれたもう1人の先生にも。
自分の道を選ぶときによく、
少しでも上の高校に行った方が、将来の選択肢が増える。
自分に向いている道を見つけよう。
なんて言われます。
それが悪いんじゃないんです。
当人以外の人にとっては、そうとしか言えないことも多いのです。
選択肢を増やすことで、やりたいことができた時に備えよう。
やりたいことを追究するわけじゃないのです。
ただ、その言葉を受け取り、実際に道を決める人にとっては、
少しでもやりたいことを見出そうという積極性は失って欲しくないなと、
切に思うのです。
その「やりたいこと」は、
必ずしも予め、受験前や進路選択の前に分かるとは限らず、
実際にそこに飛び込んでから、遅れて分かることも含みます。
大事なので繰り返します。
実際にそこに飛び込んでから、遅れて分かるということもたくさんあります。
そのためには、
何気ない事柄からでも心を動かすという、
日頃の習慣がモノを言うのです。
ごんぼっち