2015年05月14日

勉強の本質


今晩は、本日も粛々。


前回のつづきです。
つづきと言いながら、いきなり余談から入るのですが、
私は人文・社会科学がたまたま好きで、歴史学の講義でとかく先生たちが主張していたのは、
「歴史を調べると、現在の仕組みが成り立ってきた経緯を知ることができる。
 しかし、現状追認にお終いなのであれば、歴史学の存在価値が無い」
ということです。
学問って熱いんですね。

前回は、
教育はその価値を「遅れて分かる」という構造をとる。
だからその構造を理解している人は、「将来選択肢が広がるように」と合理的な判断をする。
しかし、合理的ではあるが、消極的だというお話しでした。

こういう構造になっているから、そのとおりに合理的に判断するということと、
歴史はこう歩んできたのだから、今の仕組みがあるのは納得だよね^^とは、
とても近い発想だと思います。

遅れて分かるから、先にいろいろ仕入れておく・・・というのは、
あくまでも対処療法ということです。

私は思うのです。
本来、いろいろ知ること自体、楽しいことだと。
小さい頃、見たことも無い物を発見したら、とにかく触ったり口の中に入れたり、
周りを冷や冷やさせるくらい、興味を持ったはずです。

勉強は苦行である。
勉強をたくさんすることは可哀想だ。
勉強は遊びの反対語である。

こんなので、授業中に目の死んだ、ダメな大人の予備軍が出来上がるわけです。


勉強は最も勝率のいいギャンブルだ・・・と、
どこかで見たことがあります。
しかし勉強は世の中を渡っていくのに役に立つ道具だけではありません。
そもそも、いろんなことを知ったり、頭を使ったりすることは、楽しいことなんです。
勉強は、限られた人にしか許されなかった、
最大の娯楽だったんですよ。



                                ごんぼっち

posted by ごんぼっち at 23:59| Comment(0) | 教育情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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