2012年04月27日

授業での号令の意味


今晩は、本日も粛々。


寺子屋では、授業の終わりにだけ、

「ありがとうございました」と挨拶をしています。


本当は始業前にも「お願いします」とやりたいのですが、

どうしても中学生は、部活で遅れてくる生徒もいますので、

始業の挨拶は、していません。


さて、この挨拶の号令、

きちんと声を出していなかったりすると、私が途端に不機嫌になります。

場合によっては納得するまでやり直しすることもあります。



その号令の意味、ご存知ですか?

先生と生徒の礼儀の問題・・・ではありません。



これについては、

ぐぅの音も出ないほど、素晴らしい文章を見つけたので、

そちらを引用します。


(引用開始)

 授業の始まりと終わりのあいさつを、しっかりしましょう。

 ところで、勉強を教わるキミたちが私に向かって「お願いします」「ありがとうございます」というのは当然だとしても、私も一緒になって「お願いします」「ありがとうございます」言うのは何故か、考えたことがありますか?

 それは実は、この教室の中にたくさんの神様がいて、その神様に対して、「お願いします」「ありがとうございます」と言わねばならないからです。

 例えば、古代ギリシアのアルキメデスは、戦乱の最中にも地面に図形を書いて研究しているような人でした。その図形を敵国の兵士に踏み潰されたために「私の円を崩すな」と叫んで逆に殺されてしまいます。

 中世ヨーロッパにいた錬金術師たちは、「金以外のものから純金を生み出す」というその本来の意味ではまったく目的を果たせず、生涯を馬鹿なことに費やした人たちです。しかし彼らは金以外のたくさんのものを生み出し現代の科学に寄与しました。その意味では科学の神様たちなのです。

 19世紀に生きたエヴァリスト・ガロアという青年は、つまらない決闘のために20歳で命を落とした人です。しかし死ぬ直前に書いた数学の論文は「ガロア理論」として今日も大変な力を持っています。

 カール・マルクスは何人もの子どもを死なせながら「資本論」を書きましたし、血を吐きながら歌を詠んだ正岡子規、身を削って絵を描いたゴッホ、ロートレック、ムンク、自らのレクイエムを完成できずに死んだモーツァルト・・・

 たくさんの人が学問のために身を奉げました。大変な貧乏をしたり家族を死なせたりしながら学問を続けてきたのです。

 私がキミたちの教えることの大部分は、そういう人たちが発明したり発見したりしたことです。私自身が見つけ出したことは、ほとんどありません。 その意味では私たちは一種の「知の霊媒師」なのです。

 ですから私を尊敬したり、私を素晴らしいと思う必要はありませんが、私の後ろにいる多くのの神様のことは、尊敬し信頼を寄せなければなりません。

 キリスト教を信じる人は、十字架の向こうに神様を感じるから拝むのです。十字架という金属の固まりが大切だからではありません。仏像を拝む人も木の像を拝んでいるのではなく、仏像を通してその先にいる仏様を拝んでいるのです。

 同じようにキミたちは、私を通して私の後ろにいる神様たちを拝む必要があるのです。私たちはそうした神様に囲まれながら勉強しているのですから。

(引用終了)

引用元URL http://air.ap.teacup.com/applet/supert/20120427/archive


ちなみに、有名な学者たちのエピソードの一部は、

寺子屋に置いてある『栄光無き天才たち』というマンガの中にもあります。



それでは皆様、

ありがとうございました。




                             ごんぼっち



posted by ごんぼっち at 23:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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